黒くろ猫 ―1―

 バイト先の上司が兎角この世は住みづらいと言ったのでそうなのか、と思う。その主張が至極主観的なものであると理解は出来るがどうも僕には人の嗜好とも言うべき思考に自分が同調できるか脳内検索をかけてしまう節がある。しかし、今まで取り巻く環境に僕自身興味の湧いた覚えがなかったのでその感覚に同調することができず、えへら、と道化の如く笑い誤魔化し
「そうですね」
と、だけ言っておいた。善意。



 夕刻5時半から開始したこの業務。終業時刻は10時だが、毎度の如く定刻には帰れそうもない。半ばやっつけ気味に仕事を終わらせようと思い面倒な仕事を明日へと投げる。忘れず連絡も残す。暑苦しいネームカードを取り外し、仕事以上にてきぱきと帰り支度を済ませる。
「お疲れさまでした、お先に失礼します」
誰も僕を振り返ることなくパソコンの画面を除いたまま返事を返す。その様子を横目で見つつ扉を開ける。向かう足はロッカールームへ。時計を見るともう11時。時給分損しているが毎度の事なので愚痴を言う気にもならない。僕のバイト先には僕を含め5人のワーキングプア予備軍がいるわけだが、誰も残業代が出ないことに咎めをしない。更には僕以外がみんな年上で勤務歴も長いと来ているのだ。とてもじゃないが残業代を出せなんて「僕が」言える雰囲気でない。いや、別に言った所でこちらが法に従って容易に相手を論破出来るのであろうが、5人の調和を崩す大いなる要因となる。それでは仕事に支障が出る。見合わない。800円如き許してやろうじゃないか、寛容な精神で。伊藤開示。自動ドアを抜け外に出る。夏特有のむわっとした湿り気のある熱風を肌で感じた時
「ああ、これがこの世は住みづらいってことなのか」
と、呟いてみた。実感が湧かなかった。



 公園に駐輪しておいた自転車に付けられた「駐輪禁止」の紙を破り捨て鍵を開ける。すうっと自転車を押し出し、それに飛び乗る。
車だけが早送りされているような感覚に陥る県道23号。古びたスケートリンク。ディスカウントショップ。居酒屋。酔っ払った中年、老年。コンビニ。
 そう、コンビニ。
店に自転車を横付けし、清涼感たっぷりのクーラーの効いた店内に入る。孤独なる晩餐を精華あるものにする為に贅沢品も含め買い込む。ふと、アルコールの前で足が止まった。久々にビールでも飲んでやろう。ビールをカゴへゴトゴト放り込む。世知辛い世の中にはビールなんじゃないのかい。



 さんざ詰め込んだカゴをレジにどんと叩きつける。お会計3512円也。カードでお願いします。




 ビールがゴンゴン鳴る袋を入れた前籠を揺らしながら、しゃあっと駆け抜けていると、何か黒い物を轢きそうになり思い切り左にハンドルを切る。そのまま体ごと45度傾き自転車を放棄しそうになったが左足でなんとか体勢を保ったまま滑ることができた。舌打ちをし自転車を止め、落ちたビールを拾うついでに「それ」が何かと覗き込む。







 黒い、猫が、寝ている。